チェギョンがパウダールームへと席を立って、
シンは一人で食べかけのローストビーフを見つめていた。
『なかったことにしましょう…
よく覚えていないんで…』
困ったように視線を泳がせ、
そう言ったチェギョンの顔を思い出していた。
嘘だな…
なかったことにしたいかどうかは別にしても、
覚えていないというのは嘘だ。
覚えていないなら、なかったことにする必要もない。
困っていた。
眉を下げ、瞳がクルクルと動いていた。
俺が困らせたんだよな…
俺があんな顔をさせたんだ…
いつもなら、情事の記憶は煙に巻く。
その場限りと割り切って
お互いの翌日のことになど気は回さない。
名前さえ知らないこともよくある。
だが、
あいつがベッドにいないと気づいた時…
僅かに寂しい気がした。
おはようと言って欲しかったのかもしれない。
無理やりに食事に誘い、
美味そうに食べる顔をいつまでも見ていたかった。
とにかく、全部が俺らしくない。
なかったことにすると言うなら、
昨日以前の可愛い後輩とデキル先輩に戻るってことか?
困らせておいて、
嘘まで言わせておいて、
ちょっと卑怯な気もするが、もとの関係は悪くない。
誘えばいつでも、
あいつのあの…美味そうに食べる姿を見れるってことだよな…?
できるのか?なかったことに…
シンは不意にタバコが吸いたくなって、
唇に手をやった。
◆◆◆
「ここ。ここ。
飲み物も持ってくるから、待ってて。」
ワールドカップ観戦で賑わう店内をすり抜け、
チェギョンは奥の部屋に通された。
「今日は、うるさいからさ!
厨房の隅ってわけにもいかない。」
「え?でも…」
雑然とはしているが、豪華な造りのその部屋はやけに広い。
「いいって!いいって!少し休んでいきなよ。」
「は…はァ~」
「俺、今のところ、チェギョンちゃんに下心はないから!」
「え?えへへ…」
今のところという表現がどこか笑えた。
「オーナールーム…ですか?」
ドアにはそう書いてある。
「ああ、俺の部屋。
住んでるわけじゃないけどね。」
「へ~」
変わった調度品の並ぶ個性的な空間だ。
チェギョンは少なからず興味を持った。
「なんだったら、友達に迎えに来てもらったら?」
警戒してるのか…?
チェギョンがソファに座ろうとしないので、
ギョンは友人を呼ぶことを提案する。
「ほら、ドルチェも沢山あるしさ。」
「友達…」
ガンヒョンの顔が浮かんだ。
時計を見ると、9時少し前。
『9時ころ、電話するね!チェギョン』
ガンヒョンがそう言っていたのを思い出した。
「友達、呼んでいいんですか?」
「いいよ~!じゃあ、俺、シンに話してくるから!」
ヒラヒラと手を振り、ギョンは出て行った。
先輩はどう思うだろう…
怒るかな?
失礼な奴だと呆れるだろうか?
ううん。
ほっとするに違いない。
なかったことにした上に、私が一人で帰ってくれたら
先輩の『どうかしていた』事件も終わる。
これで、よかったんだ。
チェギョンは通話ボタンを押す。
「もしもし…、ガンヒョン?」
◆◆◆
「どうした?シン」
唇に手をやり、考え事をしているシンにギョンが声をかけた。
「え…?ああ、タバコが吸いたくなって…」
「ダメだぞ!うちは全席禁煙だ。」
「ここで吸うつもりはないが…」
「お!ベッドでか?相変わらずだね~。」
「は?」
ベッド…?
チェギョンの白い肢体が急に脳裏に浮かんで、シンは慌てた。
「お相手は誰だよ~?このこの!」
「 … 」
連れがいるのに…
おまえはバカか、ギョン。
でも、昨日の今日で、またあいつとってことはないよな…
いや、もう2度とそんなことは…ない。
それはそれで残念な気がする。
俺は自分勝手かもしれないな…
「あ、チェギョンちゃんなら帰ったぜ。
誰かに電話で呼ばれたらしい。」
!?
「は!?誰だよ!?」
「さあ?男じゃね?」
「バカか!早く言えよ!」
シンは、慌てて立ち上がり、スーツの上着を羽織った。
「つけとけ!」
そう言うと店を慌てて飛び出した。
「バカはおまえだ。シン」
残されたギョンが呟く。
スタッフを呼んでテーブルを片づけるよう指示をしながら、
泣かせた罰だ。一人で帰れ。
チェギョンの泣き顔を思い出していた。